このブログに興味をもって、
ここまで足を運んでくださり、ありがとうございます。
このブログでは、薩摩琵琶のことをお話ししていきたいと思っています。
薩摩琵琶は、
薩摩藩(現在の鹿児島県と宮崎県の南の一部)で
侍たちが弾いていた弦楽器です。
リュートという弦楽器に似ています。
今では鹿児島県を飛び越え、
日本各地で演奏されています。
そして、遠くアイルランドでも。
私はアイルランド中部湖水地方に広がる緑の草原にぽつんと建つ、
先祖代々暮らしてきた家で、
日々琵琶を弾いています。
今回は、
その旅路の始まりについて書きたいと思います。
私はずっとクラシック音楽畑を歩いてきた人間です。
幼少の頃からピアノを習い始め、
音楽が生活の一部でない時はほとんどありませんでした。
現在、私はアイルランドの首都ダブリンで
パイプオルガニストとして働いています。
でも、パイプオルガンを習い始めたのは、
自分の意志ではありませんでした。
13歳の時に奨学生として入学した
アイルランド中部にある聖フィニアンカレッジでは、
奨学生はパイプオルガンを学ぶことになっていたのです。
最初の二年間、
どうしてもパイプオルガンを好きになれませんでした。
しかしながら、
その後三年間をかけて、
少しずつ自分の中で、
パイプオルガンの存在が大きくなってきました。
18歳の時、
ケンブリッジ大学の奨学生となり渡英。
コーラスに関する経験はありませんでしたが、
自分のパイプオルガン演奏には自信がありましたし、
今でも好きなメシアンのDieu Parmi Nousという曲も
しっかりと準備してありました。
ケンブリッジ大学のエマニュエル校に選ばれ、
1991年にピーター・ハーフォード氏からパイプオルガンを学び、
音楽理論や音楽史を学ぶ日々が始まりました。
広い世界と出会う
大学一年目の終わりに
聖歌隊のツアーで訪れたオランダのハーレムで、
暇つぶしにレコード店に立ち寄りました。
その時偶然、
レコード店に流れていた尺八の録音を初めて聴きました。
あとで店員に尋ねて、
それは横山勝也の演奏だと知りました。
今までこんな音楽は聞いたことがありません。
私は、尺八の音楽に、
一種の無限性のようなものを感じ、
感銘を受けました。
拍子がない音楽だから
この無限性を達成できたのだろうか…
それでもやはり、
この音楽には、
もっと特別な何かがあると思いました。
メロディが演奏されているというよりも、
言葉が話されているとか、
何か情景が語られているというような。
そうは言ったものの、
演奏家が音楽を通じて
何かを伝えようとしているという感じは一切しないのです。
演奏家はまるで器のような感じがするのです。
そしてその器を通して、
個人を超える無意識の領域で
言葉になる前の言葉のようなものに触れるという感じでしょうか。
民族音楽学 ー 安全な距離から、民族音楽を学ぶ
大学での2年目には、
民族音楽学を学ぶことにしました。
このコースの指導教官はルース・デイビス博士で、
主に北アフリカ、エジプト、イランそしてイラクの民族音楽に焦点を当てていました。
大学での3年目もまた民族音楽学を学び続けることにしましたが、
この年はコリン・フーエンス博士が指導教官の一年間のコースでした。
フーエンス博士は、
その前年に北パキスタンの音楽で博士課程を修了されていました。
フーエンス博士のコースでは、
その他にも中国や日本の音楽にも焦点が当てられ、
文学や芸術、歴史などの文脈に重点を置いて音楽を学ぶことを重要視されていました。
私にとって素晴らしい学びの機会となり、
熱心にコースに取り組みました。
私は、ケンブリッジ大学の日英会のメンバーとなり、
ケンブリッジ大学を訪れる日本人学生とも親交を持ち、
日本の人たちが日本文化をどのように考えているか聞くことができたのもこの時期です。
琵琶との出会い
この年、私は初めて鶴田錦子による琵琶の演奏を聴きました。
またこの時、
武満徹が作曲した
オーケストラ、琵琶そして尺八のための「ノーヴェンバー ステップス」を
鶴田錦子と横山勝也による演奏で聴きました。
琵琶の音楽は、
私の理解する音楽からかけ離れていて、
理解することができないと思いました。
打楽器のように使われた琵琶のバチが楽器を打ち付ける音、
ハープなどとは違った、雑音や揺らぎのある音、
別の次元から生まれたような声。
これを「音楽」と呼ぶのは難しいのではと感じました。
それは、横山勝也の演奏する尺八を聞いた時の経験と比べて、
これを楽しむのは非常に難しいと思いました。
コースで一緒に学んでいた他の学生の中には、
日本文化は、理想的な形よりも
日常の中の不完全な美や醜さをわざと取り入れる傾向があると言う人もいました。
音楽の中の例を挙げれば、
わざと弦の響きを濁してサワリをつけ、
雑音が混じるように音を出します。
純粋な弦の響きを変えるということです。
西洋からの観点では、
そのことを私は理解できます。
でも、
日本の友人たちは、
この観点を受け入れることができなかったようです。
この時気がついたのです。
私は日本の人から
日本の音楽文化について聞いたことがないこと。
そして、
日本の楽器について
何が特別だと感じているのか
見せてもらったり教えてもらったりしたことがないことに。
そして、私がまだ、
日本文化の中で音楽を作るという経験をしたことがないことに。
私は、
日本に行き、
日本文化の担い手たちに会って、
直接学びたいと強く思うようになりました。
日本へ行き、文化にとけこむ
私は在アイルランド日本大使館のJ E Tプログラムに応募することにしました。
申請は受理され、
日本のどこの都道府県に行きたいかと聞かれました。
大学の図書館で日本の地図を開き、
目を閉じ、
地図を指差してみました。
私の指が置かれた場所は、
群馬県でした。
その数週間後、
私は群馬県吉井町に向かっていました。
私は群馬県を選んだことに、
神の導きを感じました。
なぜなら、
群馬県には
日本音楽の三曲(尺八、琴、三味線の合奏)の伝統が
強く受け継がれていたからです。
さらに、
吉井町で私は、
荒木古童5世の高弟である若林舜童に会うことができました。
尺八は、
竹でできた縦笛で、
伝統的に5つの大きめの穴が開いています。
私は9歳からフルートを演奏してきたので、
尺八もなんとかなるだろうと思いました。
にもかかわらず、
なんと音を出すのに数週間かかり、
その音を続けさせるのに、
さらに長くかかりました。
しかしながら、
四苦八苦の末、
尺八初心者誰もが習う「六段の調べ」という曲を
なんとか吹けるようになりました。
そして、
楽しく練習を続けた数ヶ月の末、
琴との合奏も始めました。
琵琶の名手との出会い
その年の冬のある日、
私が勤めていた学校の校長先生が、
吉井町の郊外で日本の伝統音楽のコースが週末に開催されることを教えてくれました。
このあと知ったことには、
私のアパートから2キロも離れていないところに、
西洋と日本の伝統的な創作アートや音楽に特化した学校があったのです。
この学校、高崎芸術短期大学は、
1981年に先見の明のある教育者によって設立されましたが、
残念なことに2013年に後継者によって台無しにされてしまったのです。
しかしながら、
1994年の12月、
私がこの学校を知った時には、
水琴窟や茶室もある美しい日本庭園のある、
とても健全で、活気のある学校に見えました。
そのコースでは、
私は篠笛、能管、琴、三味線、太鼓、尺八、そして琵琶から
学びたい楽器を選べるということでした。
今でもよくわからないのですが、
私は琵琶を選びました。
しかしながら、
私は本能的に、
それが私のやりたかったことだと言いました。
数日後、
私はスタッフにアパートまで迎えにきてもらい、
その学校へ向かいました。
まずオリエンテーションのようなものがあったのだと思いますが、
私は一言も理解することができませんでした。
それから、
私は3階にある部屋へ行くように言われました。
そこへ向かう途中、
私は普門善則先生に初めて出会うことになるのです。
その時、
御年83歳の先生は、華奢で小柄に見えましたが、
しっかりと地に足がついていて、
当たり前のように3階の教室まで階段を上がって行きました。
私は当初全く日本語がわかりませんでしたが、
私が少しドイツ語ができるということがわかった時、
普門先生の顔が輝き、
私にドイツ語で話しかけてくるようになりました。
なぜ普門先生がドイツ語を話せるのかということは、
いずれまた。
このようにして、
私の最初の薩摩琵琶の稽古は、
ドイツ語で行われたのでした。
あの週末は、
私のとってあらゆる発見に溢れたものとなりました。
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